昭和四十七年三月十三日
御理解第六十一節 「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話しておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話してゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな」
信心しておかげを受けたら、神心になりてもと、どういうおかげを受けた人の話をして行くのが、真の道を踏んで行くのか、丁寧に話をして行くのか、いや話をして行かねばなりません。と言うところにならなければならんと思うのですが、只私共の小さい願いが成就したからと言った程度のおかげの話は大したことはないと思うですね。どこまでも、御神訓にありますように、「神はわが本体の親ぞ、信心は親に孝行するも同じ事ぞ」と。
「神はわが本体の親ぞ、信心は親に孝行するも同じこと」と言う程しの信心。ですから切って切れようはずがない、親子の関係ですから、御利益受けるから、信心をすると言うのではない。御利益を受けるから、修行する、改まる、研くと言うのではない。親との関係が、いよいよ密に交流し、それを感じ取らせて頂く、おかげを受けるから、そこのところがわかっていない人に伝えなければおられないということになって来る、
何か神様と私どもの関係という、只おかげということだけで【】、おかげと言うのは、御利益だけで【】んで、おるような信心では、成程それはお話しをして行く一つのきっかけにはなる。けれどもそれは本当の神様への御礼ぞとか、それが神になるのぞとか言うようなところにはなって行かないと思う。
例えば、信心でも「日々の改まりが第一」、「本心の玉を研くのぞ」とおっしゃるから、今は大変その辺のところが、難しいところですけどね、おかげを受けなければならんから一生懸命お参りもする。おかげを受けなければならんから改まりもする、研きもすると言うところの信心、それが一番私共には手近で実感ですかね。おかげを受けなければならんことがあるから一生懸命修行する、お参りもする、本気で自分も反省して見て、こげなことではいかんぞという、親子夫婦話し合って、お互い改まり合うて行く。ところが、不思議にこれではですね、おかげはよし受けましても大したことはない。
どうでもやはり、「神はわが本体の親ぞ」と言う根本的なところが段々わからせて頂い
て、それこそ昨日の御理解の中でも申しましたように、「極楽の門番なりとして見たさ、塵も掃きよせ草取りもして」と言ったような、本当におかげを言うても極楽行き、言うならば真の信心、真実自分自身の心が救われ助かるということ。真の信心がわかりたいとして改まり、いよいよ改まりもする。研かねばおられんと言うことになって来る。せめて真の道の入口にまで位、辿りつかせて頂きたいと言った様な願い、がです、それは一寸【】し様ですけどね、改まると言うこと。
昨日美登里会でございました。本当に昨日一人一人発表されました。どの方の話を聞いても、本当に素晴らしい話でした。一番はじめに原さんが発表されましたが、そのことでした。「本気でどうしてもおかげを受けなければならない。為に私どもは本当に改まらにゃならん、本気で研いて行かにゃならん、いわゆるおかげと言うものがある。そのおかげを受けなければならんと言うところ。だから研かねばならん、改まらなにゃらん」と言う意味を発表しておられました。今は改まりもせん、磨きもせん、そういう気持ち持たずに、只おかげを受けずに行くということも出来るのです。お参りをして、お願いをする。御取次を頂いておかげを受ける。
けど原さんの場合は、これはもう研くことは、おかげの条件になっている。けれども、それでもう一ちょ原さん、そのおかげを受けなければならんということは、同じおかげであっても真の信心と言うおかげ。言うなら自分自身のおかげを言うても、自分の心がいよいよ助かって行くと言うところ、それにはやはり、「極楽の門番として見たさと」いうような信心に対する、一つの真の信心へのファイトと言うのが生まれて来る。だから塵もはきよせ草取りもしてということになる。
自分の心の中に、汚いものも改めて行こう。このまま日々生えて来る雑草も、取りもさせて頂こうということになる。同じようであるけれども、もう大変な開きになって来ると言うこと。それでも誰でもおかげというものは、それでも魅力だからおかげを切り離して言うても、私どももそう言うたり、思うたりした時代がありました。けれども、もうそれでも、それであったら、研いても、改まっても、答えとして出て来るのは、天と地の違い程になって来るです。自分自身が研けば研く程、改まれば改まる程、おかげを頂くでなくて、程自分が有難うなって来ると言うこと。
昨日一番最後に、熊谷さんが発表しとられましたが、一番に言っておられることは、もう本当に最近実感させて頂くことは、もうとにかく有難いということ、これは本当に有難いのであろうか、いや、こういう有難さというものは、私だけのものではなかろうかと言う位有難いと言うて話をしておられたですね。
一日を終わらせて頂いて、最後の御祈念をさして頂いて休ませて頂く時に、御礼を申さして頂いとると、有難うして、有難うして、その有難さというものはです。確かに熊谷さんだけのものでしょうけれども、こういう有難いというものを皆さんが、味わって行きよんなさるじゃろうかと。「この有難いものを、何とかして人に伝えて行きたいなと思う」と言うておられます。思って見ると、あれもおかげ、これもおかげと、成程そのここで言
う、御利益ですね、御利益を受けたから有難いと言うのではなくて、いわゆる自分の心が楽しみに向かう信心を頂かなければならんと思うですね。
今日の御理解から、いわゆる自分自身が助かって行く、そして最近親先生がおっしゃる。宗教革命ということがです、何宗、何派の方達でも、今私が頂いておるところの、この喜びというそのものがです。合楽の信心によってこういう喜びを頂いておる。いわゆる和賀心を目指さして頂いての信心というものが、本当にその宗教革命の運動員にでもお取り立て頂いてです。それこそ、難儀な人達に、もうそれこそお寺さん辺りにでも行って、この話をさして頂いたら、皆さんがわかって頂いたら、どんなにか喜ばれるであろうかと言うようにまで、自分の有難いと言うものが募って来るとこう言われる。も少し言うならば若さがあり、本当に宗教革命の運動員で歩いて回りたいというような、もうとにかくそういう衝動を感ずる。
だから手近な人にだけ位ここんところを聞いてもらいたい、伝えて行きたいと言ったような、本当に若い者のような、お話しをなさっておられます。今の私では、合楽で私が皆さんに聞いて頂いとるお話しと言うのは、それこそ血がたぎって来るようなお話だと思うですね。「和賀心時代を創るためには」と言う御理解ですから、それが自分がおかげを頂くから改まるとか、研くとかということであったら、絶対そういうファイトは、湧いてこないと思うですね。
色々と他の宗教、宗派も頂く、そして先日から霊友会の確かに御信者さんが集まって助かって行きよんなさるけれども、それはお先祖祭りならお先祖祭りだけ、先祖の供養さえすれば助かるということだけで居られる。そういう人達に、それも本当。それよりも、もいっちょ根本になるものを説いてあげたら、つい近所に霊友会の今は大変難儀しとられる方がある。非常に心易くしておられたのですから、そこのお家に行って、それでそのことをお話をしてあげたいと言うて機会を願っておるということをね、言うておられます。
信心しておかげを受けたら神心となって、「神心となりて」と言うのは、私はそういう信心を押して、そういうおかげを受けて行くところから、自ら湧いて来るのが神心だと思うですね。只お先祖様の供養をしたから助かったと言うのは、それはどういう助かりかと言うと、そのお先祖様が助かられんということによって、自分の病気が治ったとかという先祖様が助からっしゃったけん、「自分の心が和賀心になった」と言ってはないのです。
だから言うならば、だからいつまでたっても自分の心を、が助かるということにはつながらない。そういう事に打込んでおられる方達が沢山あるから、そのことをそのこととして、有難いけとそのもう一つ向こうにある、いわゆる信心しておかげを受けるという自分自身が本当に助かると言う、そういうおかげを受けることが、私はここで、信心しておかげを受けたら、神心となりて、自ずとわいて来るのが神心、これをそのことだけに、それこそ運動もして参りたいというような、それが私は神心、その六十一節に、成程これならば「いよいよこれが神になるのぞ」とおっしゃる、おかげにつながって行くと。しかもそ
れが、これならば神様の願いが成就することのための、手になり足になりして頂くのですから、神様のやはり最高の御礼になると思う。神への御礼ぞと、真の信心をさせるのが神への御礼ぞと。
今合楽で頂いておる、御理解を伝えるということは、お話を自分自身が頂いてです、これは勿論、熊谷さんじゃないけれども、有難うして有難うしてと言うところまで、信心が、心が高められて来た。そしてこげなおかげを受けたと言うのではなくて、自分が助かって行くということの有難さを人に伝えて行く。真の信心をさせる。それが神への御礼、これが神になるのぞと、只自分が信心した、思いがかのうたとか、病気が治ったとかいう程度の話では、これは真の信心をさせるということにはならないけれども、その楽にといったようなものにはなりましょうけれども、それから真の信心に入って行くことは大変に難しいこと。それはお互い多くの信者さん方を見れば一番よくわかるわけです。どういうおかげを頂いておっても、それが真の信心につながっていないのがほとんどなのです。
原さんが発表されるように、おかげを受けなければならん、どうでも一生懸命お参りもさせてもらわねばならん、家族を挙げて信心もさせてもらわねばならん。本気で改まらなければ、本気で研かなければという信心だけでは、そういうことになって来ない。
只一家中勢を揃えて信心しましたら、本気で改まって研きましたら、こういうおかげを受けたと言うおかげではです。本当なことじゃない。だからそれが、いけんのじゃない。それも有難いけれども、真の道を踏んで行くといううことではない、真の道というのは、どこまでも私自身が真の道を目指さしてもらうということなのである。
言うならば、極楽の門番なりともさせてもらいたさにと言うのでなければならん。おかげを受けなければならんことと違うでしょうが。だから、草も取ろう、塵も掃きよせようということ事になって来るのです。ですから、そういう話。
そこでです。今は同じ金光教の中でも、最近の例の中にありますように、撫で摩りするようなことが、「金光様、金光様」と言って、なでさすりするということで病気が治るということで、何千人の人が集まって来るようなことでも、それは有難い。けれども、宗教革命の根本のところが、それでは本当の助かりになりませんよ。そういうおかげも頂きながら、「ここんところも間違えてはいけませんよ」と教えてあげたいと言うのである。
只人の真似の出来んような修行の出来なさった先生の御取次を頂いて、何万人の人が助かっておると、成程それも助かって行くことは有難い。けれどもその助かりは、本当の助かりではありませんよと。言うなら、今日私が申しますなら、熊谷さんの例を以てするなら、そういう助かりでなからなければ、真の道への信心にはならないと言うこと。先生の御取次を頂いて、御繰合わせを頂くとか、先生からこう撫でてもろちから、病気が治ったと言う。どれだけ助かっても、どれだけ助かって行っても、おかげを一生頂き続けても、それはあの世までも持っていけることにはならないと言うこと。
そこで合楽では、そこに気付かせて頂いて、そういうおかげを頂いていることをです、自分のこういう有難さと言うものは、これは自分一人の有難さではなかろうかというくら
いの有難さがです、ついたその心はです、いわゆる神心なのです。それが止むに止まれん思いになって、心が沸って来る。
それが親先生のおっしゃる宗教革命の運動員にでもならせて頂いて、別に過激ということではない、その有難さがです、そういうあなた方が頂いとられる信心も有難い、おかげも有難い、それを無くしたとは言わんけれども、その根本になるところが、ここでなからなければなりません。ここと言うのが和賀心目指しての信心でなからねがなりませんと、その和賀心がいよいよ育って行くということが有難い。その有難い心に、病気も癒えよう、金銭の御繰合わせも頂いて行こうというおかげでなからなければならんと言う。
神への御礼ぞと、これが神になるのぞと、神になりても神より上になると思うなと、ここんところが私は今日の御理解から頂くと、そのような沸るような有難さ。宗教革命の運動員にでも、お取り立て頂きたいと思う程しに、運動してまわる。そこに人が助かって行く道がついてもです。私が話しをしたから、私が、運動員がまわったからという心を出するということだと思う。
どこまでもどこまでも神様のおかげでこういう心にならせて頂いた、神様のおかげでお話しをさせて頂いた、人に伝えることが出来たと言う心持ちを、忘れるなということだと思います。しかもその信心の根本になるところのものはです、「神はわが本体の親ぞ信心は親に孝行するも同じこと」と言う信心の根本【】であるところのです、踏んまえて、そして親であるところの神にいよいよ近付かせて頂く行き方を、「信心しておかげを受けたら神心となりて」と言う、信心しておかげを受けたら、「信心して」と言うことは、真の信心を目指さして頂いたら、真の真の喜びというもの御利益を受けたから有難いと言うのではない、自分の心の底から湧いてくる喜び、その喜びがです。衝動とまでなって来る、運動員にお取立頂きたいといったような、本当にもちっと私は若さがあったならです。本当に運動してまわられるようなおかげを頂いたら、どんなに有難いだろうかと言うところまでです。只信心が、お話を頂いて有難い。わかって行くから有難い、といったようなものでなくて、それが本当に、運動もしてまわらねばおられぬ程しの、衝動になって来るところを、この第十一節は説いてあるのではないかと思うのです。
「神となりて人に丁寧に話をして行くのが、真の道を履んで行く」まあ 運動員とか革命とか言う言葉を使いますとね、一寸穏やかではないようにありますけれども、私はそのことを穏やかに、私が申しますなら、このことになるのではないでしょうか。
信心してと言うのは、私が今日申しますような信心しておかげを頂くから、研きもすれば、改まりもする、修行もする、お参りもしよるというものには、そういうもの、神心が湧いて来ない。それでは信心しておかげを受けた、本当に極楽行きを目指すということが信心だと。そこにはいろんな物質的な、おかげと言うものがそこに伴っていない、気持ちの中にない。それでいておかげはついて行くことなんですけれども、そこから段々育って来るのが神心。
その神心と言うのは、そこに難儀な人、いや本当の道を歩いてない人に、何とか導いて
やらねばおられない、教えてやらねばおられないと言う心が神心、人に丁寧に話をして行かなければおられないのである。それがいよいよ真の道を履んで行くことになり、金光大神が教えられたことを、そのままに伝えることになる。
私どもがおかげ話をして伝える時に、金光大神が教えたことと外れておる場合があるのです。お願いしてこげなおかげを頂いた、ああいうおかげを頂いたと言う時には、金光大神の御教えに外れておる場合がある。
けど今日申しますところのおかげを頂いて行くと言うことは、金光大神の教えられたことが自分の心の中にそのままありありと頂けて来る。体験になって表れて来る。そういうことになって来る。違う筈がないのである。真心が承知しないのである。互い違いのように、人に伝えて行ってさせるのは、それは真の信心させることにならんですわね。それなら、もちっと御利益頂くところがあるなら、他に移るということになって来るです。そういう信心にならせて頂く。
私は、熊谷さんの信心が完璧と思いませんですが。昨日の発表から、あのもう七十歳になられてから、そういうファイトがどこから湧いて来るだろうか、信心から湧いて来る神心なのだと私は頂かなければならんと思うのです。それが期せずして人に伝えて行くうちに、神様への御礼にもなっており、それがいよいよ自分が神になって行くと言う、信心修行をしとることにもなるのです。
そこで、本当に私が、合楽の根本理念とでも申しましょうかね。合楽で現在説いておるそこのところを、誰にでもお話しの出来れるようなおかげを頂くと同時に、そういう信心でさせて頂いて自分の心の中にです。そういう神心が湧いて来るような、こういう喜びが私一人ではなかろうかと思われるような喜びの頂けれる信心を頂いてです。何故世の中の全部の氏子達が、和賀心を目指さなければ人間の本当の幸はないのだ。あり得ないのだとわからせて頂いた。それを伝えて行かねばいけん。「親先生は和賀心時代は千年先か、万年先かわからんけれども」とおっしゃるけれども、そう遠くはなかろう。
最近、毎日新聞やらテレビで賑わっておるところの、あの赤軍の方達の耳を覆いたい、目を覆いたいような事件を見るに付けてもです。「もう、いよいよ和賀心時代が近付いて来た。和賀心時代でなからなければ、人間が幸せにならないということを実感します」ということを最後に言っておられますね。
熊谷さんは、もう千年先とか万年先じゃなかと、もう和賀心時代でなからなければ、人間が助からないと言う時代がもうここに来ておる。そこに私どもの一人一人がです。その和賀心時代を創ることのために運動員に、ならせて頂かねばならんと言うておられます。 しかも、「神になりても神より上になると思うな」と言う。いつもお道の信心の尊いところと言うのは、実意丁寧、いつも謙虚であると言うこと、もうですから、金光様の御信心は、内には沸るような、燃えるようなものを持っておっても、それがどこまでも実意丁寧な、どこまでも謙虚な姿に、で行くことが、人に丁寧に話して行くということに絶対必要なのです。押し付けるわけではない、あなた方が本当に頂いて助かってある。だからこ
れは、決して宗教革命ということは、必ずしも何宗、何派を対照にしたものではない。
あらゆる宗教や金光教自体もそうである。最近例を申しておりますようにね、手をあててもらって病気が治るような。それもやっぱり金光教だ。親先生が徳が高いから、それによって人が集まって人が助かると言う、それもやはり金光教なんだもの。けど、その助かりではです。いわゆる和賀心を創るのには遠いのです。
だからそういうおかげを受ける、も一つ根本のところに、本気で和賀心を追求して行く信心姿勢というものが、真の道ということになるのですから、只おかげを頂くということだけで集まると言ったようなものではない。そういう信心を頂いて、それを丁寧に話して行く、真の道を踏んで行くということはそういうことなのです。
とにかく、自分の心の上に、紙一重の上にある、私どもの信心。例えば原さんの例を取りましてですね。一生懸命お参りも出来とる、修行も出来とる、改まっても行きよる、研くことにも努めてておる。それがどこまでも「極楽の門番なりともしてみたさ」と言うのが、それでなければいけないと言うこと。
それはやっぱり、参れば参るかとあるもんのと、只「改まってさえ行けばおかげを頂くばい」ち言うものであってはならんと言うてもね、これはね自分の心のちょっとした切り替えなんですから、こればっかりは、翻然としたものになって行かなければならんのですから、そういうものが出来て来るところからです、自ずと神心は私は強いものになって来る。それこそ人に【】として生まれて来る喜びを、この喜びを人にも伝えて上げなければおられないということになって来ると思うのです。
私は、今日はこの六十一節を本当に合楽ではほとんどの方が、もう研くことに、改まることに一生懸命になっとられる。それは成程どう考えてもやはり、おかげを受けんものであるからと言うものであって、それはおかげを受けんならんけど、それが、その次の段にならなければいけない。
やっぱり一番の願いとするところはやはり極楽の門番でもさせてもらいたいというような願い。真の信心になりたいというその願い。だから、そういう信心をさして頂いての願いということにならなければいけないと思うのであります。真の信心がわかって行くことの楽しみということになって来なければいけない。
只願っておることが成就して行くことだけが願いである、楽しみであっては、最後のところになって来て、大変な開きになって来ると言うこと。同じようなことでも、真の道にちょこっとばかりそれて来るということになると言うこと。そのちょこっとばかりが初めの間はちょこっとだけれども、しまいには大変大きな開きになって来ると言うこと。
どうぞ一つ真の信心を目指して頂いての改まり、そこを目指しての修行ということになって来なければならんと思いますね。
どうぞ。